2016年09月12日のツイート
@twilightmoon99: RT @ujiqn: 新書のタイトルっぽく当たり前のことを言う待受画像をつくりました。ご自由にお使いください。#あたりまえ新書 URL
@twilightmoon99: RT @rjgeller: NHKの特番の題名は「地震予測み挑む」ではなく、「来年度の概算要求宣伝に挑む」という方がよいのではないかと思うのは僕だけでしょうか?#NHK地震特番検証
@twilightmoon99: RT @tokyocamerajp: Seiji Sadakataさんの作品。リツイート&いいね!大歓迎です。URL URL URL
@twilightmoon99: RT @rjgeller: 熊本地震の予知できなかったが、「後知」は成功した、と。要するに、起きてから、”あれは前兆現象だった”と因果関係も統計学有意性なしでも簡単に言える。この考えは”前兆幻想”というべき。#NHK地震特番検証
@twilightmoon99: RT @asano7: 「司書が真面目に司書としての仕事をしてるだけではダメ」ということがすでに危機で、図書館に集客力を求めるってことに異常さを感じるんですけどね…。 URL
@twilightmoon99: RT @kirinosakujin: 今夜の大河「真田丸」で、昌幸が信繁に命じて、秀忠本陣の染谷台を奇襲させる拠点にしようとした蚕山(虚空蔵山)は写真中央のように、ほんとにかいこが這ったような姿をしている。右手の山は戸石城。真田本城から撮影。 URL…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 田丸直昌につきましては、三谷さんから「小山付近にいたといわれているので、関ヶ原時の動向を確認したい」というご質問をNHK経由で頂戴し、「実際には美濃にいた」ことを確認して御返事をしております。参考文献がすぐに出てこないんですが。 https:/…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 沼田城の「小松殿」(※小松殿というのは尊称で、名前ではありません)が昌幸を追い返した件、今年春まではフィクションだと思っていたのですが、『真田信繁の書状を読む』執筆時に大谷吉継書状を全文現代語訳した結果、慶長4年に帰国した可能性あり、と判断を改…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: さて、9/15の関ヶ原は徳川方の大勝利でした。しかし、まだ「西軍」には毛利輝元が大坂に健在です。だから三成も、再起を期そうと試みるのですが…。本当に、一連の経緯はイレギュラーです。黒田如水が吉川広家に愚痴るのも分かる気がします。
@twilightmoon99: RT @HIRAYAMAYUUKAIN: @HIRAYAMAYUUKAIN この「蚕山」も、地元を調査して歩いていて、多くの古老から御教示いただいた名称です。上田、真田在住の皆様なら、「よく知っているな」と思われると思います。それは、地元の方々から御教示いただいたからです。本当…
@twilightmoon99: RT @HIRAYAMAYUUKAIN: 本日の真田丸、秀忠や昌幸がみていた地図は、アタクシの力作。江戸後期の絵図を底本に、国絵図などを参考にして作成しました。砥石城の近くに、真田方の伏兵が潜んでいた山は、「虚空蔵山」なのですが、天正11年の時の虚空蔵山城と混同しやすいというこ…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 当時の人々も、家康の勝利が秀頼の進退に関わると考えていたのです。むろん、家康はそのようなことをせず、秀頼のもとに「謀叛を平らげた」という形で戦勝報告をするのですが。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 関ヶ原の結果は、豊臣方の人々をパニックに陥らせています。京の隠居屋敷(京都新城)にいた北政所は、後陽成天皇の生母勧修寺晴子の屋敷に逃げ込み、小早川秀秋が迎えにきてようやく屋敷に帰っています。淀殿も、片桐且元を通じて家康に交渉を打診しています。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: それと、以前「実は戦場は青野ヶ原」という研究が!という報道があったのですが、これは昔からしられていたものがたまたま報道されたというケースです。同時代史料で、双方の呼称が混在しています。また『三河物語』は青野ヶ原ですね。ただ家康が、「関ヶ原」と書…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 関ヶ原の二日後に徳川方が出した書状や宣教師の書簡によると、開戦は午前10時頃。その直後に秀秋が「御味方をした」結果、「西軍」が総崩れとなり、本戦そのものも短時間で決着をしたようです。このあたりは白峰旬氏の研究に詳しいので、ご参照ください。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 一般に、関ヶ原朝8時開戦、西軍が善戦し、裏切りに逡巡していた小早川秀秋に家康がわざと鉄砲を撃ちかけたことで午後になって秀秋が寝返り、午後3時頃決着したとされますが、いずれも軍記物によるフィクションです。そもそも松尾山は結構高所で、混戦中に鉄砲な…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: そしてこれをみて、家康が諸大名を関ヶ原に動かすことになります。そうすると、大谷吉継が突出した形となりますから、大垣にいた三成たちも関ヶ原に移動するという経緯で、かなり偶発的なものでした。まあ、当時の戦争はそんなものです。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 関ヶ原本戦ですが、実は戦闘開始前に小早川秀秋が寝返りを疑われ、三成が拠点として整備した松尾山城の守備隊を追い出して松尾山に籠城をしていました。これが9/14です。これに対応するため大谷吉継が関ヶ原に布陣します。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 実は三成自身、昌幸を説得する書状で「天の与える」好機だと述べていまして、「戦国の世」に逆戻りする状況だと認識していました。家康も含め、関ヶ原であんなにあっさりと決着がつくとは思っていなかったのです。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 毛利輝元。この人も四国や九州に攻め込んでいます。あげくに、毛利吉成(「西軍」)の小倉城にまで手を出すということまでやらかしてまして、ようは上杉も毛利も、この機会に領国を拡張し、戦後再編されるであろう豊臣政権内の地位向上を狙ったわけです。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: いっぽうで、上杉領というのはようするに「伊達旧領」なので、伊達政宗が侵攻してきており、そちらへの応対で手一杯になります。なお「百万石のお墨付き」が家康から提示され、戦後破られたとされますが、政宗が「切り取り次第」で制圧した領域を与えたというもの…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: この書状で景勝は、「最上・伊達と戦っているので徳川領には攻め込めない」と断言し、「家康が江戸から出陣すれば、佐竹義宣と協議する」とリップサービスをしています。当時の上杉領国は、会津・出羽米沢は地続きなのですが、出羽庄内が飛び地でして、間にいる最…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: いっぽう、上杉→「西軍」への書状は、8/25のものが「真田家文書」に残っています。この判断は難しく、1)上田城まで来られたけど、そこから進めなくなっていた、2)沼田で信幸が使者を捕らえたのどちらか。いずれにせよ、8月中旬には昌幸は上方の状況不明…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: もっとも三成が「手紙届いてるか不安」というのも当然で、「西軍」の陣容すべてを記した機密文書を何度も添付したためです。これはたしかに「真田家文書」にあるんですが、1点しかないんですよね・・・。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 三成は昌幸に繰り返し「上杉と連絡を取り、江戸を攻めるよう話をしてくれ」と頼んでいますが、周辺諸大名は徳川方(木曾は石川光吉が代官なので「西軍」)ですし、肝心の信幸が徳川方なのでやりようがありません。このため、曖昧な返事をしていたようで、三成は「…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 三成は8月頭には大垣城に入っています。岐阜落城時のマップで美濃・近江国境あたりに顔があったのはこのため(ただ地図の縮尺上、正確な位置におくのが難しいとのことでした)。昌幸への最後の書状は8/10付ですが、「浅野家文書」に伝来しており、昌幸のもと…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 小山評定は現在あったなかったで論争中ですが、私は史料を見る限り、あった」と考えています。もっともその場での具体的な合議内容は、わかりませんが。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 今回は矢沢三十郎頼幸の見せ場であったかと思います。本当はこれ以前から信幸つきだったのですが、ドラマでは一時的に「信幸の命で」信繁に付けられました。江戸時代は信幸の家老になりますので、ここで本来の形に戻していただいた感じです。ちょっとほろっときて…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 平岩親吉は本当は厩橋城にのこっておりました。ただお芝居の関係で、第一次上田合戦参加者に出て貰う必要からの人選となりました。大久保忠世は既に死去、鳥居元忠は伏見で討死しているためです。もっとも、厩橋在城は信幸監視のためとされていますので、秀忠指揮…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: なお、作劇上カットされていますが、岐阜城攻略は福島正則と池田輝政両名の手によるものです。東海道方面の先鋒は、福島と池田両大名が統率していました。なお、三成は福島正則に対し寝返り工作を続けており、福島正則も清須帰国後も門前払いにはしていません。か…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 秀忠の関ヶ原遅参。今回ようやく「最初から裏切り者真田討伐を命じられていて、家康の命令変更が遅れただけ」という史実を反映してもらえました。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 平野長泰。ドラマでは作劇の都合上「秀次事件」で召し放ちという扱いになっていましたが、実際は慶長3年、つまり秀吉の死去年に従五位下遠江守に任官しております。関ヶ原では、秀忠勢の一員でした。降伏交渉の使いとなっているのはフィクションですが。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: ただ、本多正信が提案した「刈田狼藉」は基本戦術でして、この年の上田の収穫は壊滅的状態になり、百姓が逃散して荒廃した上田領を信之が引き継ぐことになります。戦国の合戦の一シーンを象徴的に描いていただけたと思っています。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: まず第二次上田合戦について。実は神川の堰を切ったのが第二次、大雨で洪水が起きたのが第一次なんですが、軍記では第一次でも堰をきったことになっており、それが採用された経緯があります。その関係で、少し違った描写になりました。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: もうひとつ、関ヶ原の研究史がここ数年で大幅に前進してまして、考証サイドからはどのような説をご提案するのが妥当かの選択が難しいかな、という点もありました(作劇の際の判断材料として)。もちろん、私の考えはお伝えしていますが。もう少し、議論が進むのを…
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 「七将事件」までの三成や小早川秀秋の動きは、上方に信繁ときりがいますから、そちらを描く分には問題が無く(秀秋と江雪斎は密室でしたが)、「関ヶ原にいたる道程」(三成が失脚しちゃう「七将襲撃」まで)のほうに力点をおくという形をとられたようです。
@twilightmoon99: RT @kazumaru_cf: 「超高速関ヶ原」でした。本作は最初から真田一族ときりが見ていないものは「描かない」(家康や秀吉のひとりのシーンなど一部例外あり)というスタンスで決めているとのことでしたので、私としてもそれを踏まえて考証をしています。